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【怪しさ編】10日間のヴィパッサナー瞑想合宿(リトリート)@千葉に行ってきたのだ!

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 さて、いよいよ怪しさについて語る時が来たようだ。これが僕が書きたかったことであり、このブログの意義でもあろうと思っている。ヴィパッサナー瞑想合宿の怪しさを払拭する、そしてそれでもまだ残る厄介な部分について言及する(ヴィパッサナー瞑想合宿の参加者で、満足度の高い人はこの記事はあまり読まないほうが良い。僕は中立的な立場で、また理性的な、科学的な立場で、批判を書くことになる)。前提として、ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想合宿には、とても感謝しているし、効果も高いものだと思っている。だからこそ、多くの人がヴィパッサナー瞑想という手法による恩恵を受けられるように、この怪しさを払拭したいと思うのである。効果が高いからと言って、決して盲目的になってはいけない。

密教か洗脳か

 ヴィパッサナー瞑想合宿なのだが、行く前の記事にも書いたように「怪しい」のは確かである。その怪しさの発端となってることは、情報の開示が少ないことや「聖なる」という言葉使い、「生きる技術」「心の手術」などの文言などであろう。ブログを探しても、このあたりの情報が出てこず、ゴエンカ氏の本を読んでも全貌は明らかにならない。また、10日間のコースという、密教的な手法論のせいであろう。これらが組み合わさって、なんだか特別で神秘的なもののように感じさせられるわけである。洗脳なのではないかという不安さえ頭をよぎる(この怪しさのため、興味はあるが参加するのに抵抗がある人がいる。これはとてももったいないことだ。このブログで、かなり多くを紹介したので心配な人は全部読んで欲しい)。

開示の不可能性

 なぜ、今まで開示されてこなかったのだろうか。ここには厄介な問題が多く含まれている。まずは参加者から発している問題である。これまで参加しても、あまり情報を開示してこなかった。別に情報を開示することは制限されてない。むしろ、ヴィパッサナー瞑想での体験は、共有するように求められる。しかし、ここでの教えや体験を理性的な思考で見ることは難しい。パーリー語が問題となっている部分も大いにあるだろう。そして、それを言葉にして伝えることはとても難しいのだ。

 体験としては素晴らしいものとなっているため、なんだか「よかったよ」「人生が変わった」「行ってみるべき」というざっくりとした共有にとどまりがちだ。もちろん10日間の間に大量にインプットがあるので、それを整理するのはかなり難しい。それでも、あまりにも上記の怪しげなところについての言及ができずにいたのは、それを理解できなかったからだろうと思うわけである。また、これらへの言及はゴエンカ氏を、やや批判的に見なければいけない。それを行うのは難しい。

 僕もこの記事において、努めて中立的に、そして出来る限りの言葉を使って伝えようと思うが、本当にできているかどうかは怪しい。それでも、理解への一歩とはなるだろう。もちろん僕の間違っている部分もあるので、そこはご了承頂きたい(僕はそもそも、この怪しさを解明しようというのが副次的な目的で参加しているので、他の参加者とモチベーションが違うことも有利に働いている。そしてこれを解明しなければ、僕の目的は果たせてないことになる)。

原因とその解釈について

 ハッキリと言うが、やっかいな原因を作っているのはゴエンカ氏本人である。もしくは、それを盲目的に運営してきたことにあろうと思う。ただサンクコストバイアスから擁護するわけではないが、このコースはこのコースのまま残しておくべきであると僕は思う。中途半端に歪められ、大切な部分までも稚拙になってしまってはもったいない。その判断は大変難しいだろうから、この録音テープを使った、誰が行なっても一定のクオリティの担保ができる手法論は残しておくべきだ。また施設や10日間コースのルールなどから得られるものは素晴らしい。これらの方法を使った、ゴエンカ氏には賞賛を贈りたい。

 一方で、時代的背景を組み込みながら、進化していくことを阻害している。こちらのデメリットについても理解しておかなければならない(例えば、世界は波動であるという解釈に、量子力学を持ち出し、やっと科学が追いついてきたという話をするわけであるが、よくある勘違いであり、厳格な哲学者や科学者からは反感を買うであろう。中途半端に科学をかじって、それをゴータマ・ブッダに紐付けてはいけない。これ自体は間違いではないのかもしれないが、科学はそういう世界の見方をしているわけではない。それは解釈にすぎない。そしてこの話を直そうと思っても、録音されている以上カットするのは難しいのである。そして、こういう話が随所に出てきており、変更を加えるのは難しい)。

言葉が支配するイメージ

 まず文言について。「聖なる」や「心の手術」「生きる技術」は、どうやらゴエンカ氏がこちらの方がわかりやすいだろうということで使っている。これは日本語の翻訳のせいか、宗教感を与えてしまっていることには変わりない。それに、実際的にはどこも「聖なる」宗教的なところは、このヴィパッサナー瞑想の実践方法には一切ない。「聖なる」は「正しい」ぐらいに理解しておくほうがいい。

 そもそも「聖なる8つの道」などは、そもそも八正道のことを行っているのであって、こちらのほうが日本人には正しく、それも怪しくなく伝わりやすい。おそらくゴエンカ氏は八正道という言葉は、仏教用語という観点から、どちらかというと西洋で受け要られやすい「聖なる」を使ったのだろう。これが、逆に日本では逆効果をもたらしていると思われる。このあたりの背景も理解しておいたほうが良い。ゴエンカ氏の考慮が、日本では逆に宗教色を出してしまっている。

心とか手術とか

 「心の手術」についてだが、これは半分ぐらい正しくて、半分ぐらい間違っているように思える。10日間集中して瞑想することで、トラウマだったり不安・心配などを徐々に消していくことができる。また反射的に行なっていた、感情的な反応も取り除くことができる。このため手術という言葉を使っているのだが、どうもしっくり来ないし、やや神秘性がある言葉となっている。本来の意味では、どちらかと言うとトレーニング・鍛錬・修行のほうが言葉としては正しいしように思えるし、もう少し軽くするならセラピーなどのほうがよくあっているように思える。しかし、この瞑想法を表現にするのに、たしかにぴったり来る言葉はない。「心の手術」はゴータマ・ブッダが「私は心の医者だ」と言ったことから来ているとは思われるが、どうも僕にはしっくり来ない(比喩としては間違ってはいないと思うのではあるが)。

 また、「心の手術」なので10日間参加しなければいけない、という謎のロジックを押し付けてくる。これは、全くを持ってナンセンスだ。「医者が手術をしている時に、勝手に帰ってもいいと思いますか?」と講話の中で問うてくるのだが、そもそも手術であるという認識が間違っていると思うので、「何を言ってるのか」と思うわけである。なので、この「心の手術」に関しては、気にする必要はない。

 ただ、実感としても10日ぐらいは熱心に瞑想しないと効果が出ないのは確かであろう(瞑想の実感的効果は50〜100時間経過した時に感じることが出来ると言われている。1日10時間で10日間の瞑想の時間があるので、ちょっとサボっても、そのぐらいの時間にはなる。このあたりは理にかなっている)。「心の手術」の言い回しは、ちゃんと実践してもらうための、エサだと思って聞くのが良かろう(途中で帰ると悪影響があると言うのだが、実際に家族が緊急時には帰れるのであって、その前に何か特別なケアがされるかと言われると、何もない。このあたりに大いに矛盾を感じる)。

秘密にしたがる方法

 また瞑想法も明文化されてない。そして、ちゃんと理解するまでは他人に指導してはいけないと言われる。なので、10日間コースに参加するように勧めなさいと言われる。これは実際に来てみて体験しないと、その瞑想法を理解できないからであるとも言われる。言っていることはわかるが、それでも間口が狭すぎる。また、以下に話す厄介な部分によって、手放しに積極的に勧められないのが本音である。ただ、これらを理性的に理解して行くのであれば、10日間のコースは有意義なものとなるだろう。ただ、講話に関しては、やや我慢する必要があると思われる。また講話だけではなく、パーリー語での詠唱は不快だ。また皆で唱えるパーリー語も不快だ(僕は唱えなかった。これに耐えれない人もいるだろう。僕がそうだ)。いろいろな絶妙な部分が、積み重なり、このコースの神秘性を増やしているし、理性的な探求を阻害している。

文化的背景の共有されない境界線

 ここから一番厄介な部分に入っていく。どこから、説明するのかを決めるのが難しいのだが、まずはゴータマ・ブッダについて語ろうと思う。ゴータマ・ブッダは、人々の理解に合わせて話を伝えるのがとても得意だった。例えば哲学的な理解を持っている人には哲学的な話を、読み書きができない老人には日常の生活でのわかりやすい話を、死までの時間がない修行者に対しては簡潔なわかりやすい話をするのである。そうすることによって、頭だけの理解だけではなく、対話相手に瞑想の実践をさせようと試みたのがゴータマ・ブッダである。なので、ゴータマ・ブッダは書物を残さなかったのではないかと思うのである。

 さて、この話はすべての話がそうであると理解した方がいい。ゴータマ・ブッタは真理に到達していたと思われるが、それを語る言葉は時代背景に合わせて、人々が理解しやすい言葉で話したと理解するほうが良いのである。なので、ゴータマ・ブッダの言葉は正しいと理解しても問題ないであろうと思う。ただ、その理解をする時に時代的・文化的背景や、だれに伝えてたのかを理解しないと歪みが生じる。

転生輪廻は真実か

 転生輪廻の話をしよう。ここが一番このコースの講話の最大の難所である。おそらく、インド・ミャンマーの文化的背景からゴエンカ氏は、そもそも転生輪廻を前提としている。転生輪廻を「信じている」のである。これはもはや「信仰」であり、宗教である。このコースには全くの宗教はないと言っているが、それは嘘だ。転生輪廻という列記とした宗教を前提としている。おそらくこれを、宗教であるとはゴエンカ氏は認識していない。体に染み付いている、文化的なものであろう。こういう習慣は我々にもある。なので、頭ごなしに批判するわけではないが、宗教色をなくすと言った以上、転生輪廻については理解しておいてほしかったと僕は思う。また、講話の中でもやや他の宗教を批判する。これも良くない。

 ちなみに転生輪廻の話は、とてもやっかいで「仏教思想のゼロポイント」でも議論されているが、この話だけどうも議論が感傷的になっていると思われる。また本当に議論するには多くの難しい問題を考慮していかねばならず、ニーチェあたりにも登場してもらわないといけないのではと思われる。なので転生輪廻はすっ飛ばすのが良いと思う。なぜなら、瞑想実践にも、そしてその効果にも、転生輪廻の理解は必要ないからである(解脱よりも、涅槃という言葉を使ったほうがいい。これらの言葉は、ほぼ同時に使われることが多く、解脱はゴータマ・ブッダが転生輪廻の文化的背景の下、使ったと理解するほうが納得感がある)。

ゴータマ・ブッダの天才

 ゴータマ・ブッダも「私は解脱し、次に生まれ変わることはない」と言ったではないか、ゴータマ・ブッダも間違っているのか、と反論が聞こえてきそうであるが、先程の話を思い出して欲しい。ゴータマ・ブッダは時代背景にあわせて、自分の話を語っているだけである。また、この言葉には「転生輪廻がある」ということを言ってるわけではない。(みんな転生輪廻とか信じちゃってて来世が怖いとか言ってるけど、そんなのないし、そのことがわかったよ。だから信じてる人に対して話すけどね)という頭のなかでの前置きが入ってるがここはゴータマ・ブッダは言わないのである。言っても得をしないし、間違った理解を残してしまうからである。彼がやりたかったことは、相手のストーリーのなかに、自分の体験と理解を語り、人を動かしていくことである(ゴータマ・ブッダはこのあたりのケアが徹底的に上手かったように思える。できるだけ勘違いをされることを避け、状況に応じては返答をしないという手法も使う。だからこそ理解が難しくなる部分もあるのではあるが、文化的背景などを紐解き、言葉を正確にそのまま受け取れば、間違ったことは言っていない)。

正しい因果・間違った因果

 またよく講話の中で使われていたのは、因果応報とか縁起の話であるが、これも拡大解釈して誤用をしているように思える。「良いことをしたら良いことで返ってきますよ」というわけであるが、これはある程度は正しいのであるが、ある程度は正しくないと思われる。これも誰にどこまで、どんな話をするか、という話の範疇で考えないといけない。また縁起の話は、ゴータマ・ブッダは十二因縁の話をしているだけであって、それ以上の拡大解釈はまた誤解を生みやすいと思う。これらの話は限定的には正しいのであって、否定するわけではないが、行き過ぎると宗教感が増してくるように感じる。

 ゴータマ・ブッダその人は非常にロジカルなのであるが、わかりやすく伝えるためのその話・その解釈に対して、文化的背景的な道徳観や宗教感をやや残しながら話を伝えている側面がある。このあたりを考慮に入れ、特に自分との文化的背景が同じところは盲目的な信仰になっていると考え、講話を聞く必要があるのである。時々、断定的な言葉を使うが、その時はゴエンカ氏の理解が盲目的になりすぎていると、聞く側は理解すべきだろう。

科学的な理解を持って、現代に甦れ智慧よ

 述べてきたように、このコースから発せられる「怪しさ」は文化的背景や言葉の使い方によるものが大きいと思われる。もちろんこの「怪しさ」は、僕自身や日本人特有の背景からの理解が助けているところも多いので、ダメだと言っているのではない。私たちに必要なのは、論理的な、時代背景にも文化的背景にもよらない共通認識と論理である。

 さて、現代の私達ができることは、瞑想の科学的解明である。ゴエンカ氏のコースを盲目的に信じることに無理がある人が多いことは、とても良く理解できるからである(僕もそのうちの一人だ)。しかし、全人類に瞑想の恩恵が与えられるべきだと僕は思う(講話の一部やパーリー語の詠唱を我慢すれば、ヴィパッサナー瞑想による恩恵が受けられるのではあるが、我慢するのもつらかろう)。だからこそ、科学的に解明し、確固たる科学という基盤の上に瞑想をのせるべきである。そして、僕にはそれができるように直感的に理解している。

 これまでの脳科学研究から、瞑想を脳科学的に解明できる道筋は、すでにたっているように僕には感じるのである。転生輪廻の問題を上記で解決済みとする(もしくは無視する)のであれば、おそらくは涅槃の体験までは完全に脳科学の話で、ロジカルに進めることができるのではないかと思うのである。現時点では測定機械の精度の問題や、脳機能についてわからないこともまだまだ多いが、かなり良いところまで科学の上にのせることが出来るであろうと思っている(体験的な部分は、クオリアの問題に帰着するので、そこまでは踏み込めない。いくら科学で理論解析されても、実践しないことには体験は得られない)。そして、科学の上にのせることができれば、最後に戻ってこれる理性的な頑固たる土台を作ることができる。ゴータマ・ブッダを解釈をするというフラジャイルな問題に立ち返らなくても、誰もが反証可能性の中で前進するとができる。

 ゴータマ・ブッダがヴィパッサナー瞑想を再発見し、ストーリーと実践によって人々に継承し25世紀続いてきたのであるが、いつこの手法が途絶えてもおかしくはない(今これほどまでに残っているのは奇跡的だ)。科学基盤の上に載せることで、この手法の生存の確率は上がると思うし、そして現代においては恩恵を受けれる人の数も大いに増えるだろう。そのような発展をしていくことを僕は願っているのである。

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